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執筆者の写真katsuaki3745

一リットルの涙.昔を思い出した。

親父が車屋経営してたのて゜.保育園じゃなく.幼稚園に行ってました。バス通園でした。

その幼稚園で.その頃は中村亜弥ちゃんでした。1リットルの涙では.苗字が.鬼頭になっていました。幼稚園3年間はほとんど毎日亜弥ちゃんと遊んでいた.妹と弟がいました。

卒園後.亜弥ちゃんは.豊橋に行きました.自分は小学校から軟式野球を中学卒業まで.やりました。中学1年の時フォークがはやり.フォークギター購入南こうせつとか.ガロとかやりました。高校は.岐阜高専建築課を受けたので.クラスメ-トがまだ.受験勉強している.1ヶ月前に.

合格がわかり.1ヶ月早く受験勉強戦争は終わりました。

岐阜高専は電車で稲沢から大垣.そこから樽見鉄道で.北方まで.1時間40分位かかりました。

この頃の自分の性格はこの長い時間の電車通学を何とかしないと.特に樽見鉄道は.本数が

なくて.3時前半の次は.4時半過ぎしかないような鉄道なので.私は考えました.

東海道本線穂積駅から自転車で10km本線は電車の本数も多いので.そこで.アルバイトを

喫茶店で始めました。時給400円位でした。岐阜高専のクラブ硬式野球は半年でやめました。きっかけは.Charです.エレキギタ-の音色の虜になり.どうしてもエレキギタ-が欲しくて.アルバイト始めました.その後ドラムにもはまり.ドラムセットも購入しました。

岐阜高専の5年間はバンド活動の5年間でもありました。

卒業後仲間と結構やってました.卒業後3年間は設計事務所で働き.その後父親の跡を継ぐ決心し昭和61年に転職しました。

平成25年の3月に倒産廃業.自己破産しました。50歳の時でした。

倒産2年前から資金繰りで.鬱病になってしまいました。その時は通院治療で.すみましたが

倒産廃業の日から鬱が酷くなって入院となりました。

50歳の時離婚しました。弁護士が.その方がお金とられないと言われたので.

退院後は.佐川急便の夜勤に1年間行きました。

次はまた書きます

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